可哀想な作品
最近ネット上である映画作品が良くない意味で話題になっている。
その作品とはお笑い芸人としても有名なキングコングの西野亮廣原作の「えんとつ町のプペル」である。
この作品のチケットをネズミ講まがいの方法で売りつけているなどの噂が立ち、この作品そのものの評価を純粋にすることが難しくなっている。
作品自体に罪はないのにそれを取り巻く環境のせいで作品の価値が不当に低く見られることはよくある。
出演者の中から犯罪者を出した作品などは公開が中止されたり、配信が停止することもある。
中止されなかったとしても、犯罪者のあいつが出ているから見てみようと最初から色眼鏡で作品をみる人も増えてしまう。
もちろんなんの偏見もなく作品をみることは難しいが今回のように敢えて偏見全開で見られてしまうのは作品自体が可哀想である。
この偏見が広まれば純粋に作品をいいと思った人も感想を言い辛くなってしまう。
少し前だと「100日後に死ぬワニ」が作品とは関係ないところで騒がれ、作品の感想そのものを言うのが難しくなった。
クリエイターと作品は分けて考えるべきという論もあるがそれが簡単にできれば苦労はしないことは私自身もわかっている。
私も問題発言などをしたクリエイターの作品への見方が変わってしまうことがある。
どちらが正しいと言うことはないが、クリエイターは作品が不当に貶められることがないようにするべきだし、受け取る側もなるべく分けて考えた方がお互いいい。
楽しめる作品の幅はなるべく広い方が得である。
食事における面倒臭さ
私は兎にも角にも面倒臭がりで、それは食事の時にも発揮される。
世間一般は目玉焼きを何か調味料をかけて食べるものだと思っているらしい。
ソース?醤油?それとも塩?
私は今まで何もかけずに食べてきたし、これからもそうするつもりだ。
これは世間に対する逆張りをしたいからではない。
単純に面倒臭いからだ。
何もかけずに食べれば、ワンステップで食べられる。しかし、調味料をつけるとそこで一工程増えてしまう。
とにかく面倒なことを減らしたい私はその一工程すらシビアに削っていかなければならないのだ。
他にも食事中に徹底していることがある。
それはフルーツは剥かれた状態で出されたものでなければ食べない。
ぶどうやみかんなどは手も汚れるのでもってのほかである。
私の食事におけるポリシーはただ一つ。
面倒臭くない食事。
これである。
人間は隠しごとをするのが苦手なのか、それとも秘密を言いたくてしょうがないのか
よく言わなくていいことを言って問題を表面化させる人がいる。
それ絶対言わない方がいいのになんだ言うの?って。
私も似たような経験をすることがよくある。
この場合隠しごとができないのか、隠し事を言いたくてしょうがないのかどちらだろう。
似ているようでこの二つは違うと思う。
隠しごとができないは罪悪感から、バラすのは顕示欲から来ているにかな。
もちろん場面によってこの二つの感情を使い分けて言わなくていいことをわざわざ言っているのだろう。
性格や気質は文章に出る
文章の細かな癖やよく使う言葉が似ている人は性格や気質もよく似ている気がする(感想)。
やばい人の文章によく出てくるフレーズや文体ってあると思うし、哲学をかじっている人の文章もあると思う。
なんで似てしまうんだろう。普段目にしている文章が似ているからそれに影響を受けて自分の文章も似てしまうのだろうか。
謎だ。
「RWBY」のアメリカでの知名度
この前ドクタースリープについての感想を書いたが書き忘れていたことがあった。
主要な登場人物の少女の部屋に「RWBY」のポスターらしきものが貼ってあった。
「RWBY」とはアメリカ発のwebアニメシリーズで、アメリカにしてはという言い方は失礼なのだがデザインが凄く日本のアニメのそれに近い。
アメリカの二次元作品と言えばアメコミなどのゴツい画風かディズニーやカートゥーンなどのデフォルメした画風の二択のイメージがある。最近はアメコミも繊細や柔らかなタッチのものも増えてきているが。
そんな中「RWBY」は日本の漫画やアニメのような画風なのだ。アメリカでの「RWBY」のポジション、知名度がいかほどのものかはわからないが有名映画の続編にポスターが登場しても違和感がないくらいには有名なのかもしれない。
日本で言えばプリキュアシリーズくらいの立ち位置なのかなという根拠のない予想。